二学期の中間テストの結果が出そろいました。
いくつかの課題は残りましたが、今回は馬宮中の2年生が全員25位以内=上位20%に入るなど、全体としては満足のいく結果でした。
更にその黄金世代に続けとばかりに、2か月半前(テストの時点での話です)に入塾した1年生のMくんが34位から26位に順位を上げ、こちらはあと1ランクで上位20%に入るというすごい結果を出してくれました。ちなみに1年生も2年生も5教科受験者数125人だったので、25位で上位20%です。
お父さんからの最初のお問合せの際に、数学が苦手教科になりつつあるので、今のうちに対策し苦手意識を除きたいというようなことを聞いていました。
苦手といっても平均点はかなり超えていて、偏差値でいえば60ぐらいはある印象です。その状態ですぐに対策を行おうと考えるあたり、お父さんのMくんに対する厳しくも温かい思いを感じることができます。
こういったご家庭が当教室を選んでくださったことをとても嬉しく思います。ましてやご自宅から4kmも離れたこんな小さな塾を見つけてくれたのですから、より身が引き締まります。
何年も使っている教材なので、生徒が質問してくるポイントは分かっています。問題を見ただけで、過去に質問してきた何人かの生徒の顔が浮かんでくるような問題もあります。今回そんな問題にMくんが挑む番がやってきました。
必死に取り組むものの今一歩正解への道がつながらない問題で、Mくんからの質問に答えます。その問題については、ある重要なポイント一点だけ気づくかどうかというタイプのものでしたので、一言で解決しました。
大事なのはその次、同様の問題が出たときにその知識を応用できるかです。
分かりやすいように簡単な例を出しますが、2x=8という問題の場合は両辺を2で割って、x=の形にする必要があります。この「両辺を2で割る」ということを「xの係数をなくす(1にする)ため」と理解できているかどうかで、次の問題に対応できるかどうかが決まります。
3X=27という問題でも、先ほどの解法が抽象化できていない場合「両辺を2で割る」という行動に出てしまいます。大事なのは2で割ることではないのは言うまでもありません。
今までにそれを解けた生徒は一人だけという超難問にMくんが差し掛かりました。質問が来るだろうな、と構えていた私の予想は外れ、何分かけたかは定かではありませんが、Mくん自身の力で見事に正解を出すことができました。
数学が苦手になりつつある…という心配は、すでに過去のものになったとこのとき確信しました。これが勉強するということだという瞬間を見せてもらった気分です。
そしてMくんの努力は、すぐにテストの結果に表れました。
今回は平均点が10点以上下がる中、初の80点台にして平均点の倍近い点数を叩き出すという大躍進ぶりで、いきなりの任務達成です。
すべては本人の努力のおかげですが、私としても頼まれたことをきっちりと遂行できたという満足感を得られました。
当教室では、演習の時間を増やすことこそ唯一の学力を上げる方法だと考えています。
ですが、時間「だけ」でどうにでもなるわけでもありません。
勉強というのは知識を身につけることだけではなく、身につけた知識を自由に使えるようにすることが重要です。知識を伝達するだけで済むのなら、中1の方程式の範囲は紙ペラ1枚渡せば終わりです。
失敗も成功も含めた「体験」こそが勉強で、それには時間がかかります。時間をムダにするのではなく、「体験」に時間を使うことで知識を活かすことができるようになるんです。
特に算数・数学において、公式をおぼえて使うだけではただ数字を当てはめているだけで何も理解できません。
自分の力で公式を導けるようになって、初めてその公式の意味が理解できたといえます。
前回「親ガチャ」というものについて書いたのですが、あとで読み返してみると、子ども側の視点から「そんなものは関係ない」という考えを一方的に述べるだけに終始してしまいました。
ですが、親の立場になってみれば当然ながら子どもにできるだけいい環境を与えてあげたいと思うでしょうね。
それこそ「親ガチャだからあきらめろ」というような親であってはいけないです。
自分が勉強してこなかったからといって子どもの教育もあきらめて、論理的にものを考えることをできなくさせてしまった結果、その子どもは他人からのアドバイスの意味すら分からずに中傷ととらえてしまう…なんていう悲しいスパイラルもたくさん見てきました。
自分で首を絞めておいて「うちの子どもが息してない」と騒ぐのなら、まずは首を絞めるのをやめるべきです。
ただ、そんな環境だとしてもあきらめずに努力することは大事だと思います。
ほかに大した取り柄のない人類が、頭脳だけを武器に何万年も生き延びてきたのは、間違いなく先人たちの努力あってこそのものです。そして我々は、間違いなくその偉大な先人たちの子孫です。
ここ2代や3代がどうであろうと、それ以前の世代からの黄金のバトンをわざわざ掴み損ねる必要はありません。
今回、子どもに良い人生を送ってもらうためにしっかり考えてくれているお父さんに出会えたことは、私にとっても大きな財産になりました。次は英語の対策を、というご相談を受けて微力ながらいくつかの提案をさせていただき、気を引き締めて次のテストに臨みます。
今後もこのようなご家庭に選んでいただけるよう真剣に努力していこう、と改めて考える機会を与えてくれた保護者様に感謝します。
親ガチャという言葉が少し前に世間を賑わせました。
生まれてくる環境は選べない、それぞれが違う環境で生まれてくるということのようですが、それはそうだろうなぁというのが最初の感想です。
全員が同じ家に生まれてくるわけがないですからね。
だから不公平だ、という意味だとしても、それはそうでしょうねという感想です。
最初から公平が保証されているわけではないので、取り立てて不公平な側面だけをあげつらったところで何も好転しません。本当に時間のムダに感じます。
若い子たちが軽い気持ちで使うような、そこまで大した意味のない言葉なのかもしれませんが、自分のことは棚に上げているところが少しイヤな印象であまり好きになれません。
半分冗談みたいな使い方をしている分には、そこまで目くじら立てるようなことではないのでしょう。ただ、「だから努力してもムダ」というような方向に話が続くと、それはマズイなと思います。
前回のブログでやる気というものについて書きましたが、なぜ努力する人としない人に分かれるのかについて調べていたところ、「努力遺伝子」というものの話があちこちに書かれているのが目につきました。
努力できるのも才能、努力できるかどうかは遺伝で決まっている、というような話がもっともらしく書かれていますが、本当でしょうか。
多くの場合引用されているのが、「双子に楽器をやらせる」という話です。
環境に差がある別々の家庭で育つことになった(おそらく)一卵性の双子にクラシック楽器を練習させたところ、その習熟度に大きな差は見られなかった。よって、努力できるかどうかは遺伝で決まっているということが判明した…ということですが、「なんで?」としか思えません。
この実験でわかることがあるとしたら、「人は環境によらず努力できる」ということだったりしそうなんですが。
二組の双子、A兄弟とB兄弟を例にした場合、A兄とA弟の間、B兄とB弟の間にはそれぞれ有意な技術の差が見られず、A兄弟とB兄弟の間には有意な差が見られたということだとしても、努力以外の要因があまりにも多すぎて、努力遺伝子などというものの存在を証明することにはなりません。
ロシア帝国出身の作曲家セルゲイ・ラフマニノフは、ピアノの演奏家としてもかなりの達人であったことが知られています。
右手の人差し指から順にドミソドと小指までで1オクターブ押さえた状態で、それだけでも真似できないのに、更にその下を親指が通って高いミを押さえることができたそうです。
真似できる人はほとんどいないと思いますが、このようなことができる秘密の一つは彼の手の大きさにあります。というか、2メートルを超す身長にあると言ってもいいでしょう。
こういった要素も楽器の演奏技術にはとても重要なんですが、それらを無視して努力したかしていないかだけにフォーカスしても、意味がありません。
更に言えば、音楽のような趣味性が高いものについて、努力がどうしたといったところでまったく意味がないような気がします。好きな人は放っておいても時間を忘れて練習し続けますからね。
遺伝子がどうこうと言っていますが科学的な証拠もなく、「楽器演奏の技術には努力の量がそのまま反映される」という、明らかに間違った認識を前提にしている時点で、統計としても破綻しているような代物でした。
努力遺伝子について、ある評論家の方がお話している動画をYoutubeで視聴したところ、上記の「楽器をやらせる話」をしたうえで、自身が子ども時代に苦手だった体育の授業について、「お前もやればできるはずだって言われても、練習が足りないとかじゃない」「体育の時間をいくら増やしても、つまり鉄棒をいくら練習してもですね、全員がアスリートになれるわけじゃない」などと語っていました。努力してもムダ、というわけです。
ここに重要なヒントがあるなと感じたのが、「全員がアスリートになれるわけじゃない」というところです。小学校の体育の時間です。鉄棒といったって、どうせ逆上がりとかのレベルですよ。アスリートがどうとかいうレベルの話ではありません。
それを「アスリートになれるわけじゃない」からムダ…って、何か根本的な認識の違いを感じます。
この評論家の方にとっては、世界でトップを競えること以外は全部ムダなのかもしれません。とても有名な方なので立派な実績があるのだと思いますが、おそらく、自身に対する要求が幼少のころから高かったのでしょう。
こういう考え方は天才のみに許されるもので、凡人が真似するとエライことなります。
天才でもないのに目標や自己評価が高すぎると、そのせいで逆に意欲を失ったり、できることもできなくなったりするんです。
以前教室に来た中学生で、いくら言っても途中式を書かずに間違え続ける子がいました。途中式を書けば誰でも簡単にできるレベルの問題のはずが、本人は「ソロバンをやっていた」という理由で書くことを拒否しました。
途中式を書くような凡人ではない、自分は天才だ、という意識の表れだったのかもしれません。その意識さえなくせば、きっとできるようになっただろうにと今でも残念に思います。数ヶ月間の在籍で、何とか平均点には到達させることができましたが、最後までそのあたりの方針が合わず退塾となってしまいました。
天才として生きようとするのではなく、凡人としての自分を受け入れれば、きっと成長できたはずなんです。それができないせいで、凡人と呼べるかどうかすらも微妙なレベルから脱することができませんでした。
このレベルで地道な努力を放棄するのは、自殺行為といえます。
翼がないのに空を飛ぼうとすればどうなってしまうか、考えなくても分かることです。
必要以上の自己評価の高さは、いずれ必ず自分の足を引っ張ります。
言葉の響きから勘違いしている方が多いようですが、自己肯定感というのは、実力もないのに「自分はすごい」と思い込むことではなく、「自分はダメだけどそれを受け入れる」と思える力のことです。
ダメだけど受け入れるというのは開き直るということではなく、努力することで改善して成長できるという自信を持つということです。
ダメだから努力するし、ダメだから成長できるんです。誰にでもそんな経験の一つや二つはあるはずです。
何もできないのに「自分は天才」と考えてしまうのがいちばん厄介です。できないことを他人のせいにして逃げるだけで、何も成長しないまま時間だけが過ぎてしまいます。
いつまでも甘やかしていたら、気づいたときには手遅れなんてことになってしまうかもしれません。
謙虚な気持ちで、自分を成長させようと真剣に考える人間の覚悟の前には、「遺伝子」も「やる気」もどうでもいいような、取るに足らぬことです。
自分の現状を謙虚に受け入れ、少しでも前に進もうとすることが、何より大切なんです。
逆上がりぐらいなら努力でどうにかなることがほとんどです。アスリートがどうとかどうでもいいです。
同様に、ノーベル賞は取れなくてもいいので、小学校や中学校で習うことぐらい、真剣に取り組めば必ずできるようになります。
鳥の真似をして飛ぼうとしても人間には無理ですが、飛べなければ歩けばいいだけのこと。
自分にできることをしっかり実行するかどうか。
大事なのは、ただそれだけのことです。
「本人のやる気がないので辞めさせます」
塾の仕事をしていると、ときどきこのような言葉に出くわします。
同じ保護者さんから、姉のときと弟のときで2回同じ言葉を聞いたこともありました。両者ともに2ヶ月ももたないレベルで消えていきました。
つらいことや苦しいことから逃げたいと思ったら、「やる気がない」とさえ言えば逃がしてくれる、優しいお母さん…いや、チョロい親なんでしょうね。
そもそも、やる気って何なんでしょう。
やる気という言葉を聞くのは、ほとんどの場合何かをやらない人が言い訳として「やる気が出ない」などと言うときです。
逆に何かをした人が「やる気があった」という理由を口にしたというのは、記憶にありません。
やる気というものを単体でとらえるからおかしいのかもしれません。
普通、人間が行動するときには何らかの目標があります。「歩く」という行動は、その結果としてどこかにたどり着くためのものです。ただ歩くだけという場合も、散歩をしてリフレッシュするとか、健康のためにウォーキングをするというのがほとんどです。
そういった目的が何もない状態でただただ歩くという場合、それが「やる気」がある状態なんでしょうか?だとしたら、むしろもう少し目的意識を持って時間を使ったほうが良さそうな気がします。
新型コロナの時期にあまり適切なたとえではないですが、「理由はないけど明日の昼に新大阪に行け」と言われても、普通は行かないですよね。
ですが、もし明日の昼にそこで、死ぬまでに一度は会いたかった人に会えるとかいう理由があるなら、私だったら今すぐに新幹線のチケットを購入します。
理由によっては嘘をついて仕事を休んででも、交通費がなければ親兄弟や友人に借金してでも行くでしょう。
これが「やる気がある」という状態だとしても、途中経過である移動の最中、私は寝てしまうかもしれません。別に電車に乗るのとか好きじゃないんで。
つまり、ある行動の向こう側にとても重要な目的があったとしても、その行動そのものに対しては、それほどやる気がなくても不思議じゃないんです。
目的のために仕方なく電車に乗ることがあるように、目的のために仕方なく勉強することって、そんなに珍しくないんです。
なりたい職業に就くために今から勉強するべきだけど、いまいちやる気が出ない。それが普通です。それでもやるかどうかが重要なんです。
プロセスそのものに夢中になるというのは、狙ってできることではないかもしれません。
一生かけて本気でやり続けたいことが見つかった人が、寝食も忘れてガムシャラに一つのことに取り組むとき、そういった特別な人だけが持つことができる特別な熱を「やる気」と呼ぶのだとすれば、いやいややっている勉強に対してそんなものがないのは当然ですよね。
勉強するのにやる気が出ないなんて、当たり前のことですよ。
その当たり前のことで、毎回毎回辞めるだの逃げるだのしてたら、それこそ時間のムダ以外の何物でもありません。
というか、趣味にしろ仕事にしろ、人生をかけて情熱を傾けることがあるような特別な方と自分を同じように考えるのが間違ってます。
凡人は凡人らしく、やる気があろうがなかろうが、やるべきことをやるだけです。「やる気がないことはやらなくていい、やってはいけない」という訳の分からない考え方のために、どれだけの人間が貴重な時間をムダにしたことでしょう。そんな考え方はよほどの天才にしか許されないことだと思います。
どうしてもやるべきこと、やらなくてはいけないことがほかにある場合、勉強を疎かにするのはある意味当然です。時間は有限なので、あれもこれも手を出すのは最善ではないですよね。
ただ、例えばそれがスポーツであった場合、一つの怪我ですべてが水の泡になる可能性も頭に入れておいたほうがいいです。
体を壊したために人並に動くこともできず、いい年して中学生レベルの計算もできない人間が出来上がったとしても、それが自分の選択だと胸を張って誇り高く生きられるのなら、それはそれで尊敬に値するかもしれません。私にはできない生き方です。
何になるか、何になりたいか、まだ分からないとしたら、とりあえず勉強をしっかりしておくことをおすすめします。やる気なんてなくていいです。
私が知らないだけかもしれませんが、勉強しておいて後悔するような仕事って思いつかないんですよね。
できるようになるまでやらないとか、できるかどうか分からないからやらないとか、どうでもいいような言い訳ばかり上手になる前に、一歩でも前に進んでしまいましょう。未来はその先にあります。
前回のブログで「能力とは努力の積み重ね」だ、と書きました。
できない人は努力が足りないと思っていて、私の教室では生徒に努力をしてもらうことで、できないことを減らしてもらっています。
「努力が足りない」という言葉、言われていい気分はしないのかな、とは思います。
でも誤解しないでほしいのは、「努力が足りない=人格否定」というつもりはないということです。中には一部、性格の問題で怠けている人もいるでしょうが、そんな人には関係のない話です。頑張れるんだから頑張ろう、という気持ちで「努力が足りない」という言葉を使っています。
…こう書いてみると、言い方に改善の余地があるのは明白ですね。気を付けなくては。
努力はしているんだけど…と思う人もいると思います。そんなこと言われるのは心外だ、と。そういう風に思う場合、見えないロスがありすぎるのかもしれません。
小売や飲食の世界では廃棄ロスと機会ロスという2種類の損失があります。
廃棄ロスは文字通り捨ててしまうことで、賞味期限の切れたお弁当などをイメージすれば分かりやすいです。
機会ロスは、例えばコンビニでハーゲンダッツのチョコレート味を買いたい人がいて、F店では在庫が切れていたためS店に買いに行ったとします。この状態をF店の立場で見れば機会ロスということになります。
チョコレート味がないならストロベリー味を買ってくれればよかったし、ハーゲンダッツではなくPB商品を試してくれればよかったのですが、残念ながらS店に行かれてしまいました。
当然ですがこのお客さん、「店長さん、僕はハーゲンダッツのチョコレート味が欲しかったんだけど、品切れだからほかの店に行きますね」などとは言ってくれません。
なので、この機会ロスは見えないロスになります。
見えない、気づかないロスは、反省できません。反省できなければ改善できませんし、改善できなければ成長できません。
勉強の世界にも、こんな見えないロスがたくさん存在しています。
例えば小学校などで、漢字の宿題が出されたとします。ある漢字を10回ずつ書くようにという課題だとして、この課題は何のために出されたのでしょうか。
先生が「どうしても誰かに漢字を10回書いてほしい」と思ったわけでは、絶対にないでしょう。生徒たちにその漢字をしっかりおぼえてほしいからです。
10回書きさえすれば後はどうなってもいい、と思っているのなら、考え方を改めましょう。
10回書くという行為は、ここではおぼえるための手段として用意されています。その手段を目的ととらえてしまうことに問題があります。
手段を目的化してしまったために、10回書くという行為のここでの意味を見失っているので、その行為がすべてロスになってしまうんです。一見するとほかの子と同じように宿題をしているので、努力しているように見えますが、そう見えてしまうことで問題が根深くなっています。
ほかに、関連性や法則性を無視して毎回力業での暗記に頼ろうとするのもよくないです。
前回も書きましたが、3文字の単語をおぼえるのに、毎回毎回「1文字目の候補が26とおり、2文字目も26とおり、3文字目も26とおりだから…17,576とおりの組み合わせか」と思っていたらさすがに難しいですよ。
airという単語を知っているとしたら、そこにhがつけばhairです。さらにcをつければchairになりますよね。
4文字の単語の綴りは、26の4乗で456,976とおりの組み合わせからランダムに決められているわけではないです。
5文字の単語では11,881,376の組み合わせができることになりますが、その中から正解を選ぶのはさすがに難しいですよね。いや、難しくしてるのはどこのどいつだって話ですけど。
関連性や法則性があるものは、それを利用して楽におぼえるべきです。
楽をするべきところでしないというのは大きなロスです。苦労しているだけに、それがロスだとは認めたくない人もいるかもしれませんけど。
以前「ばんそうこう」を漢字で書いたところ、さすが先生をやってるような人は違うと感心されました。特に「こう」の字。
でもこの漢字、実は「絆創膏」ですから、高の下に月を書くだけです。おぼえてしまえば何てことないですよね。高いの下に月、小学生でもすぐに書けるようになります。
普段漢字を使わない外国の人だったりすると、一画目は中央最上部から、全体の20分の1ぐらいの長さに垂直な線を降ろす…などという感じで気が遠くなるような暗記の仕方が必要かもしれませんが、日本人ならすでに知っている漢字と関連付けて5秒もあれば習得できます。
先ほどの単語の綴りと合わせて、おぼえればおぼえるほど暗記が楽になっていく例だと思います。
ほかに、基礎ができていないのに応用をやろうとするのもロスが大きい行為です。
be動詞も一般動詞も分からなければ、現在進行形は無理です。その状態で過去進行形がどうとか、考えるだけ時間の無駄です。無駄なんですが、難易度の高い挑戦であるため、これも一見すると努力のように見えてしまうんですよね。
勉強法の話とは少し違いますが、以前「姉のテストをすべて取ってあるので、妹には直前にそれをやらせています」という方に会ったことがあります。
点を取ることだけを「目的」と勘違いしてしまったために、テストで間違える可能性を必要以上に下げてしまい、貴重な反省と成長の機会をロスしてしまった例です。
ここでも「点を取るための努力」のように見えてしまうことが、かなり厄介な問題ですね。
過剰な甘やかしのために、本当に多くのことができなくなっている状態でした。
こういう方は本当に必要な支援を受け入れないことも多く、この状況の改善はなりませんでした。支援が必要なところにこそ支援が届かないことがとても多いです。もどかしいというか歯がゆいというか、自分の無力さを感じます。
最後に、見えるほうのロスの話もします。
遊びすぎたり、さぼりすぎたり、怠けすぎたり、だらけすぎたり、まあ、誰にでも身におぼえのあるような話です。私にもたくさんあります。
こっちは解消しやすいですよね。何とかしていきましょう。
アルファベットは26文字。
大文字と小文字があるので、全部で52文字です。
小学校の3年生で習うとして、その後、4~6年生の3年間で復習できるはずです。
1年あたり約18文字ということは、20日に1文字おぼえれば、中学校入学時には完ぺきにできているはずです。
中学生でアルファベットをおぼえていない人、ハッキリ言いますが努力が足りませんよ。
この場合、「努力だけは認めて」と言われても、努力だけは絶対に認めません。
Always late, always late
(いつも遅れちゃう)
Yes, it's always the same
(そう、いつも同じ)
”Procrastination” is my middle name
(みんなに「遅刻魔」って呼ばれてる)
But the rest of the world is ahead of the game
(でも、僕以外の世界が一歩先を行ってるから)
And that's why I'm always late
(それでいつも遅れちゃうんだよね)
Utopia ”Always Late”より
ある日ホワイトボードに「procrastination」という単語を書いて、中2の生徒に読めるかどうか聞いてみました。ちなみに日本生まれの日本育ちで公立小学校から公立中学校に進んだ生徒で、習い事の経験はなく、当教室以外の塾に通ったこともありません。
おそるおそる…という感じではあるものの「プロ…クラスティ…ネーションだと思いxxxx」語尾は聞こえなかったのですが、読めました。
この単語はweblioではレベル18、推定語彙数11,001~12,000の専門家(あくまでweblio内での称号みたいなものです)のレベルの単語とされています。
どうして読めるのか聞いてみると、「だって、そう読むしかないじゃなxxx」とのこと。語尾は聞こえません。
「習ってないから読めません」ではなく、今までの知識を活用していちばん蓋然性の高い読み方を考えてくれたことが、まずうれしかったです。
次いで、「日本語では霧という意味のフォグという単語があります。3文字です。書いて」と問題を出すと、習ったことも聞いたこともない単語だそうですが、こちらも見事に正解しました。fogです。
どうして書けたのか聞いてみると「いや、だって、それ以外xxxx」よく分かりませんが、ほかにどう書けというのかと、多分そんなことを言っていました。
こちらも持てる知識を活用して、おそらくこれしかないだろうという答えを出してくれたのだと思います。「習ってないから書けません」とは言いません。
英語がとても得意な子です。それは間違いありません。
生まれつき才能があるのか、元々優秀だったのかは知りません。私に言えるのは、今までに見た中でもトップクラスの努力家だということぐらいです。あと声が小さいということぐらい。
単語が覚えられない、読めない、書けないというケースについて、冷たいようですがどうしても思うのは、努力が足りないということです。
一つコツのようなものがあるとすれば、発音と文字の結びつきを意識することぐらいでしょうか。コツと言うほどの大した話ではなく、真面目に取り組んでいる生徒なら自然に気づくことですね。
先ほどの二つの単語の例も、文字から音を、音から文字を探る問題になっています。
フォグという発音の3文字という問題に対して「aaaからzzzまでの組み合わせがあるから、正解率は17,576分の1か…」と思ってしまうようでは、ダメです。いや、計算すごく得意なんだなとは思いますけど。
発音と文字を結び付ける際に重要なキーになってくれるのは、当然ですがローマ字の知識です。もちろん日本国内の話ですよ。外国のことは知りません。
フォニックスという考え方もありますが、基本的にローマ字の知識があったうえで、そこからはみ出す特殊な読み方をしっかり覚えていけば十分なのではないかと思います。
きちんと勉強すれば、たくさんの単語を見ていく中聞いていく中で、どの文字がどのような音になるのか、帰納法的に自分の頭の中で自然にまとまっていきます。
ローマ字が苦手なら、まずは努力してそれを克服すればいいだけです。やらないからできないというのは至極当然のことで、悩むようなことではありません。
苦手なことを努力して克服しないで、ほかにどうするというんでしょうか。
私は能力というものは努力の積み重ねだと思っています。
才能がないからできない、能力がないからできない…。
今までに何度かそんな言葉を聞いてきました。
誤解しないでいただきたいんですが、決して専門家レベルの単語を読めるかどうかみたいな話ではないです。そんな厳しいことはよほどの努力家にしかやらせません。
「あいつは才能があるからできる、俺は才能がないからできない」
ほかの誰かの努力を自らの怠慢の言い訳に使うのは、かなり無理があると思います。
最近の風潮で「誰も傷つけない」というようなものが人気ですが、「できなくていい、努力しなくていい」と思ってる人は、少しぐらい傷ついたほうがいいんじゃないかと思います。少しはがんばりましょうよ。誰も傷つけない世界で甘ったれているうちに、取り返しのつかないことになってしまったら大変ですよ。
「足が遅いからいつも遅刻してます」と言われて「遅れていいんだよ。そんな君も素晴らしいよ」と言うのが優しさなのか、「わかってるなら10分早く出ろ」と言ってやるのが優しさなのか。
もう一度書きますが、苦手なことを努力して克服しないで、ほかにどうするというんでしょうか。
誰も傷つけないユートピアは、もしかしたら誰も成長できないディストピアかもしれません。未来ある子どもたちの世界がそんなものになってしまわないように、私は私にできることを、今日も粛々と行います。
P.S. 文中の英語が得意な生徒、中学生として5回目のテストで4回目の5教科学年1位をとりました。(5/29追記)