「本人のやる気がないので辞めさせます」
塾の仕事をしていると、ときどきこのような言葉に出くわします。
同じ保護者さんから、姉のときと弟のときで2回同じ言葉を聞いたこともありました。両者ともに2ヶ月ももたないレベルで消えていきました。
つらいことや苦しいことから逃げたいと思ったら、「やる気がない」とさえ言えば逃がしてくれる、優しいお母さん…いや、チョロい親なんでしょうね。
そもそも、やる気って何なんでしょう。
やる気という言葉を聞くのは、ほとんどの場合何かをやらない人が言い訳として「やる気が出ない」などと言うときです。
逆に何かをした人が「やる気があった」という理由を口にしたというのは、記憶にありません。
やる気というものを単体でとらえるからおかしいのかもしれません。
普通、人間が行動するときには何らかの目標があります。「歩く」という行動は、その結果としてどこかにたどり着くためのものです。ただ歩くだけという場合も、散歩をしてリフレッシュするとか、健康のためにウォーキングをするというのがほとんどです。
そういった目的が何もない状態でただただ歩くという場合、それが「やる気」がある状態なんでしょうか?だとしたら、むしろもう少し目的意識を持って時間を使ったほうが良さそうな気がします。
新型コロナの時期にあまり適切なたとえではないですが、「理由はないけど明日の昼に新大阪に行け」と言われても、普通は行かないですよね。
ですが、もし明日の昼にそこで、死ぬまでに一度は会いたかった人に会えるとかいう理由があるなら、私だったら今すぐに新幹線のチケットを購入します。
理由によっては嘘をついて仕事を休んででも、交通費がなければ親兄弟や友人に借金してでも行くでしょう。
これが「やる気がある」という状態だとしても、途中経過である移動の最中、私は寝てしまうかもしれません。別に電車に乗るのとか好きじゃないんで。
つまり、ある行動の向こう側にとても重要な目的があったとしても、その行動そのものに対しては、それほどやる気がなくても不思議じゃないんです。
目的のために仕方なく電車に乗ることがあるように、目的のために仕方なく勉強することって、そんなに珍しくないんです。
なりたい職業に就くために今から勉強するべきだけど、いまいちやる気が出ない。それが普通です。それでもやるかどうかが重要なんです。
プロセスそのものに夢中になるというのは、狙ってできることではないかもしれません。
一生かけて本気でやり続けたいことが見つかった人が、寝食も忘れてガムシャラに一つのことに取り組むとき、そういった特別な人だけが持つことができる特別な熱を「やる気」と呼ぶのだとすれば、いやいややっている勉強に対してそんなものがないのは当然ですよね。
勉強するのにやる気が出ないなんて、当たり前のことですよ。
その当たり前のことで、毎回毎回辞めるだの逃げるだのしてたら、それこそ時間のムダ以外の何物でもありません。
というか、趣味にしろ仕事にしろ、人生をかけて情熱を傾けることがあるような特別な方と自分を同じように考えるのが間違ってます。
凡人は凡人らしく、やる気があろうがなかろうが、やるべきことをやるだけです。「やる気がないことはやらなくていい、やってはいけない」という訳の分からない考え方のために、どれだけの人間が貴重な時間をムダにしたことでしょう。そんな考え方はよほどの天才にしか許されないことだと思います。
どうしてもやるべきこと、やらなくてはいけないことがほかにある場合、勉強を疎かにするのはある意味当然です。時間は有限なので、あれもこれも手を出すのは最善ではないですよね。
ただ、例えばそれがスポーツであった場合、一つの怪我ですべてが水の泡になる可能性も頭に入れておいたほうがいいです。
体を壊したために人並に動くこともできず、いい年して中学生レベルの計算もできない人間が出来上がったとしても、それが自分の選択だと胸を張って誇り高く生きられるのなら、それはそれで尊敬に値するかもしれません。私にはできない生き方です。
何になるか、何になりたいか、まだ分からないとしたら、とりあえず勉強をしっかりしておくことをおすすめします。やる気なんてなくていいです。
私が知らないだけかもしれませんが、勉強しておいて後悔するような仕事って思いつかないんですよね。
できるようになるまでやらないとか、できるかどうか分からないからやらないとか、どうでもいいような言い訳ばかり上手になる前に、一歩でも前に進んでしまいましょう。未来はその先にあります。