根本的な話をします。
タイトルのとおり、どうして勉強しなくちゃいけないのかという話です。
本当のことを言えば、「しなくちゃいけない」ということはないんです。
「でも義務教育があるんだから、勉強するのが義務なんじゃないの?」と思う人もいるかもしれませんが、義務教育というのは、子どもに教育を受けさせる義務が保護者側にあるだけで、小学生や中学生が教育を受けないと罰せられる、ということではありません。
ということで早くも結論!
「勉強はしなくてもいい!」
・・・という感じでは終わりません。これは学習塾のブログなのです。
せっかくなので、勉強する理由を考えてみましょう。(と、少し話題をずらします)
「勉強するのは、いい学校に入って、いい会社に入るため」という意見は、すでにそこかしこで否定されています。否定されすぎていて、いっそ少し庇ってあげたいぐらいです。
でも、「なぜ勉強するのか」という問の答えとしては、なんだか少しずれてるなぁというのが正直な感想です。
もちろん、そういう生き方を否定する気はありません。そういう目標を持つのはいいことだと思いますし、その目標を叶えるための手段の一つとして勉強するのは、すごくカッコいいことです。
ただ、それだけが勉強する理由のすべてではないはずです。いい学校にもいい会社にも入りたくない人は、勉強しなくていいんでしょうか?私は絶対に違うと思います。
もっと単純に考えましょう。勉強するとどうなるのか、勉強することで直接的に得られるものは何か。
個人的な結論です。勉強する理由はたった一つだと思っています。頭を良くするためです。
仮に、勉強すればするほど頭が悪くなるのだとしたら、私は絶対に勉強しませんし、生徒たちにもさせません。
頭がいいというのは、知識の豊富さと論理的な思考力を、高いレベルで持ち合わせていることだと思います。どちらか片方だけ、という人はあまりいません。たぶんあんまりいないと思います。
要するにおぼえることと考えることが得意な人は、頭がいい人といえるのではないでしょうか。
そういう人になることを目指して頭を鍛えることが、勉強するということなのではないかと私は考えています。
もちろん個人差はあります。誰でも彼でもノーベル賞を狙えるわけじゃないですから、そこは庶民的なささやかなお利口さんを目指してがんばる、ぐらいでもいいんじゃないでしょうか。
ちなみに、小学校で習ったことをほとんどおぼえているだけで、大人になってから「物知り」みたいな扱いをされます。
私は職業柄、中学校で習うこともそこそこ知っていますが、場合によっては「さすがは先生だねぇ」と感心されることもあります。中学校で習うことを知っているだけで、です。
感心されるということは、少なからず人の役に立ったということだったりしますので、やっぱりうれしいものです。
最後にどうしてもお伝えしたいことがあります。
漫画やドラマなどでは、「利口だけど他人の気持ちが分からない奴よりも、馬鹿だけど優しいほうが素晴らしい」みたいな設定がときどきあります。
作劇上の都合からか、人気取りのためなのか、頭の良さと性格の良さがトレードオフの関係で描かれがちです。
でも、現実には頭が良くて優しい人はたくさんいます。
逆に、残酷な偏見の多くは知識や情報の欠落に由来しています。無知が災いを引き起こしていることは少なくないです。
勉強したからといって、何か大事な物を失うわけではありませんので安心してください。
むしろ、勉強しなくては得られない大事な物が、世の中にはたくさんあります。
そういう物を発見することも、人生の大きな喜びの一つです。
そのためのお手伝いを、私はしているつもりです。
ブログを書き始めてから、自分の文章力の低さを痛感しています。
思っていることを言葉にするのはとても難しく、自分ではきちんと言葉にしたつもりでも、相手に伝わっているかどうかあまり自信が持てません。
今日は「日本語って難しい」というようなお話。
たとえばこのようなことがあったとします。(先にことわっておきますが、フィクションですのですべて仮名です。)
ケース1:
大宮西中学校の2年生、双子のタツヤくんとカズヤくんが、英語のテストを幼馴染のミナミちゃんに見せています。
タツヤくんは14点、カズヤくんも14点でした。さすがは双子、と妙なところで感心してしまいます。
タツヤくんは英語が苦手だということを知っていたミナミちゃんですが、カズヤくんまで英語が苦手だというのは初めて知りました。
ミナミちゃんは「カズヤくんは英語が得意ではないのか。まるでタツヤくんのようだな」と思いました。
そこで日記にこう書きました。
「カズヤくんは、タツヤくんのように英語が得意ではない」
ケース2:
馬宮中学校に通うアミちゃんとユミちゃんは、とても仲良しの親友。ところがテストの点数はだいぶ違います。英語のテストでアミちゃんは95点、ユミちゃんは22点でした。
これを見た同じクラスのタミオくんは、アミちゃんは英語が得意なのに、ユミちゃんは「アミちゃんのように英語が得意」ではないんだなと思い、SNSにこう書き込みました。
「ユミちゃんは、アミちゃんのように英語が得意ではない」
ケース3:
佐知川の個別指導塾、さいとう学習教室に通う兄妹ジュンとホタル。二人とも成績優秀で英語は得意です。特に兄のジュンは、将来は孤島のドクターになって人々の役に立ちたいと、一生懸命勉強しています。
前回のテストでもジュンは100点。ホタルも健闘しましたが89点で、ジュンには及びませんでした。
父親のゴローさんは、ホタルもがんばったけどまだまだジュンほどではないなぁ、英語が得意ではあるけれど、「ジュンのように英語が得意」とまでは言えないなぁと考えて、塾長にメールをくれました。
「ホタルは、ジュンのように英語が得意ではない」
以上3つのケースは、それぞれ違うことを言っているにもかかわらず、すべて同じ形の文章で終わっています。
「Aは、Bのように○○ではない」という文章です。
3つのケースが1つの同じ形の文章になってしまうということは、逆に言えば1つの形の文章が3つの意味を持つということです。
この「Aは、Bのように○○ではない」という文章は
1、「Aは、Bと同様○○ではない」
2、「Aは、Bと違って○○ではない」
3、「Aは、B程には○○ではない」
というように3通りの読み方ができてしまうのです。
これでは自分が本当に意図するところが伝わらなくなってしまいます。
常に読む人の立場に立って、分かりやすい文章を書くように心がけたいものですね。
たったこれだけのことを伝えるのに、こんなに長い文章を書くような人間にはならないでください。